Short-Lived Musings

つかの間の物思い

誰が「パン屋気取り」と呼ばれるのか

 アルバイト時代の後輩と飲んでいた。母親の話になって、そこから、後輩の母親が自作のパンを食べさせてきて感想を求めてくるという話に移った。そのときの話の導入が「うちの親、なんかパン屋気取りで……」だった。「パン屋気取り」という表現が気になって、それ以降の話をあまり覚えていない。

 パン屋からイメージされる人物像は、街の人の笑顔のために、朝早く起き、懸命に生地をこね、それを焼き上げ、一つずつトングで並べている姿だ。そしてそれは同時に、その人がとても強く優しい人であるということを示しているように思う。もちろん、実際に働いている人たちはそこまで単純ではないだろう。イメージを崩さないように、愛想良く接客しなければいけない。あるいは自分が食べたいものだけを作り、その余りを売っている胡乱なパン屋さんだっているだろう。それでもやはり、彼ら彼女らがパンを釜から取り出すときの感情を想像すると、微笑ましい気持ちになるのだ。時間に厳しく、しっかり者だが、人の幸せを原動力に働く心優しき一面も併せ持つ。それはなんて幸福な生き方だろう。わたしもそんなふうになりたいものだ。

 私は「パン屋」という言葉を聞いただけで幸せな気分になれる。でも、「気取り」という単語を聞くと胸糞が悪くなる。「気取り」という言葉は「芸術家気取り」「落語家気取り」というように、ある程度高尚な立場に対して使われる。こう書くとパン屋は低級な立場なのかと言われそうだが、そんなことはない。高尚の対義語は辞書的には低俗あたりだと思うが、私の中で、高尚の対義語は市井である。市井という言葉は、昔、井戸を掘った場所に人が集まったことから生まれた単語らしい。なんと誇るべきことだろう。ことさらに自分を飾り立てた先にパン屋があるのではない。飾らなくたって人が集まる、それがパン屋だ。

 私が問題提起したいのはこういうことだ。「何者かを気取るような、愚かで哀しい人間は、気取る対象としてのパン屋の魅力なんかわかるはずがないのではないか。」

 「パン屋」と「気取り」の組み合わせ。理論上あり得る概念なのに、なぜか全く光景が想像できない。生地を焼くという点でいえば往年のスレタイ「ヤクザだけどクッキー焼いたよ!」の「ヤクザ」と「クッキー」の関係と似たようなものである。ヤクザとクッキーは幸いまだ単体ではイメージしやすいのだが、「パン屋」と「気取り」は概念なので(パン屋は概念です)、何の姿かたちも思い浮かばない。

 

 「パン屋気取り」は何者か。私はこの組み合わせについて考え続けた結果、一つの解決策を得た。

 

それは「”パン屋気取り”」でググるというものである。そうすればこの言葉によって示される人間の具体的な情報が出てくるかもしれないと思ったからだ。しかし結果は3件のみヒット。ちなみに家の近くのパン屋も何件かヒットした(ので当該箇所が見えないように検索結果をトリミングしてある)。「パン屋気取り」でググってヒットするパン屋は怒っていい。

 3つの検索結果にはそれぞれ特徴があった。その中でかろうじてパン屋気取りのパターンがつかめた。一つずつ紹介していこう。

パン「屋」を気取っているケース

mamastar.jp

 まず一つはママ友の交流掲示板。「自分で性格悪いなーって思う時どんな時?」というスレッド。なるほど、「性格悪いなー」というツッコミをスレタイで消化することで、以後気兼ねなく愚痴を言えるという構造だ。うまい。この中に

ママ友が手作りパンをくれるんだけどパン屋気取りで作ってくるけどよく人様にこんな変な形で素人が作ったものくれるなと思ってる。最初にすごいねって褒めたら調子乗って手作りくれるけどまじで迷惑と思っている

という書き込みがある。あんまりだ。

 この人はパンを作っている。上手に作れていない。しかし需要があると思い込んで、皆に配っている。これではとてもビジネスとしては立ち行かない。よって「パン屋気取り」。後輩のお母様はこの人に近い。「「パン」かつ「not屋」」なのに「「パン」かつ「屋」」のようにふるまっているわけである。もちろんこれを「気取り」と称するのは言う側の主観である。

 これは後輩にも当てはまる話だが、これしきのことで「パン屋気取り」と呼ばれるのは切ない。単に失礼であるばかりではなく、供給していることからすぐに「○○屋」を連想するのは、あまりに資本主義に毒されているのではいだろうか。需要がないにもかかわらず供給するという、非ビジネス的な営みがあってもよいと思う。(それこそこのブログのように……)

「パン」屋を気取っているケース

asahi.5ch.net

 コンビニに高級品が増えたというニュースについて語るスレで

100円のパンでも買おうと思ったら

今は150円以上のパンしかないのな

パン屋気取りかよ 安くしろ

というレスがある。投稿者は、コンビニは気軽に入れる何でも屋であるはずなのに、一部商品に専門店の商品のような値段がついていることに憤っている。確かにその通りで、行ってみると分かるのだが、大抵の場合、どこもそのような価格帯である。安くても100円ショップよりちょっと高いくらいで、下手すると300円近くするものまであるのだ。そしてそれらは普通においしい。コンビニは「「notパン」かつ「屋」」なのに「「パン」かつ「屋」」のようにふるまっているわけである。

 多少味が悪くてもいいので、ワンコイン(100円玉)で買えるものも置いてほしいという意見には賛成だ。しかし、だからといってこの世界が「高いものだらけ」になっているわけでもないと思う。100円ローソンを探してみよう。

「   」パン屋を気取っているケース

asahi.5ch.net

 3つ目は洋菓子店の労働環境を問題視する記事について語るスレ。

フランス市民は毎朝の朝食のパンは必ず焼きたてを食べる習慣から

毎朝パン屋に買いに行くけど日本にそんな習慣なんてないから

深夜や朝早くから仕込みや焼くために出勤するのも

単にパリのパン屋気取りしてるだけでナンセンスなんだよな

とある。日本のパン屋もフランスのパン屋もともに「「パン」かつ「屋」」ではないか。なぜ「パン屋気取り」と言われなければならないのか。

 よく読むと(よく読まなくても)「パリのパン屋気取り」と言われている。ここでは「パン屋」という言葉が日本語で書かれていることがキーだったのだ。日本語でパン屋が言及されるとき、そのパン屋が日本のパン屋である蓋然性は高い。つまり「パン屋気取り」という言葉には、「パン」「屋」以外に「日本」という言外の要素があったのだ。

 ちなみに、実際パンが一番売れるのは午前だと思うし、焼き立てと前日作り置きでは焼き立ての方が温かく、外はパリッと、中はふんわりとした空気感があるので、パン屋が朝早くから出勤することがナンセンスだとは思わない。しかしそう思うのは素人の浅知恵なのかもしれない。投稿者の海外のパン事情への知識と「ナンセンス」という強めワードチョイスに、もしかして現役のブラックベーカリーのレスなんじゃないかと疑ってしまった。もし朝早く起きて生地をこねるのが辛いなら、そんなことやめるべきだろう。誰かの辛苦の上に成り立つ他者の笑顔になど意味はない。まずは自分の心と体をしっかり休めてほしい。「人はパンのみにて生くるものにあらず」とイエスキリストも言っている。

 

 以上まとめると、もしあなたが「パン屋気取り」と呼ばれたくないなら、やるべきことは「採算のとれるクオリティーのパン専門店を、日本人の食生活に見合った業務形態で営む」である。あるいは「パン屋」を構成する諸要素から距離を取り続ければ、「パン屋気取り」と呼ばれることはなくなる。あまりに「パン屋」とかけ離れた存在(海賊とか)は、そもそも「気取っている」とみなされないからだ。でも油断してはいけない。もしあなたが海賊で、机上に広がる海図の上で消しゴムのカスを集めてこねたら、船長はあなたを「パン屋気取り」と呼ぶかもしれない。