gooブログがサ終した。大学時代、周りがnoteやはてブをやっている中、逆張りでgooブログを開設し、いくつかの日記を投稿していた。特に誰にも読まれなかったが、自分の考えていたことなどを書き残していてよかったなという感情がある。
書き残していたと言えるのも18日までだった。私はその日にブログがサ終するということをすっかり忘れており、移行していなかった。ついにネットの海の藻屑に消えてしまったのだ。読み返して面白いかと問われれば、そんなことはないのだが、「読もうと思えば読める」という状態が失われたのは寂しい。人間関係でもよくある感覚だけど。
いくつかの記事をサルベージすることに成功した。どうしてかというと、今年に入って、AIに読ませて感想を求めていたからだ。何と寂しい人間だろう。入力プロンプトに記事の全文がコピペされていた。今やAIはクラウドでもあるということだ。
そのうちの一つを転載する。改めて読んでも、これの維持にサーバーを取られていたgooが不憫でならない。こんなブログは読めなくなって当然だろう。全然関係ないけど、gooが特にGoogleと関係ないのって許されていいのだろうかと思う。NTTドコモが運営している。許されていないからサ終するのだろうか。調べると私と同じく1997年生まれ。私の方が3カ月後輩であり、学年は彼(彼女?)の方が一個上になる。
大学の前期教養でいろいろと興味のある授業を取っていたときに書いた記事だ。とはいえ、実証的な内容ではなく、妄想を書き散らしているに等しい。学部1、2年生がやりがちなことだ。これをアカデミックなどと思ってはいけない。用語の間違いとかあったら教えてほしい。いちおうここは言い過ぎたなというところは脚注を付けている。
余計な修飾が多くてやかましい。その割にはテンポが悪くないのは立派だが。一人称がかたかな「ぼく」なのもなんかいやだ。
以下が記事である。
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ここだけの話なのだが、ぼくの名字は「〇里」という。この名字の読み方についてしばしば質問に遭う。サトですか、ザトですか、と。人の名の呼び方に細かく気を遣う人との初対面のとき、あるいは公的機関で氏名を必要とする手続きを踏むとき、二言目にはご丁寧に確認される。確認されなかった場合は十中八九すんなりと「~ザト」で呼んでくれるが、まれに「~サト」で呼ぶ物好きな御仁もいる。ぼくの祖母や高校の時の英語の教員は物好きな御仁だった。
これは、言語構造論の授業で仕入れたての知識を使えば、「連濁を生じるか否か」という、この上なく複雑な問題。ここしばらく、この連濁のことをずるずると埒もなく考え回していた。
連濁については、紋切り型の定義を述べるより、事例をもって具体的・帰納的に示すほうが、話が早い。実例は枚挙にいとまがない。青い空を意味する「青空」を「アオソラ」ではなく「アオゾラ」と発音するやつ。これが連濁。連なるときに濁るから「連濁」。ここで濁るのは後項形態素(※)のみ。里見浩太朗が「ザトミさんですか?」と聞かれることはない。
(※ある言葉が一つ以上の音素から成り何らかの意味を表しているとき、その言葉を形態素という。ただし形態素は最小の単位でなくてはならない。よって形態素は単語よりもちっちゃい。「青空」は単語であって形態素ではない。「青」と「空」に分かてるから。)
ただし連濁はいつでも生じるわけではない。それなりの条件に支配されている。その条件は複雑怪奇にねじ曲がっており、今に至るも十分満足のいく解明はされていない。でも前項、後項の音韻、文法、意味が関連しているのはまぎれもない事実。音韻がほかのどれにもまして連濁の成否を左右するが、これは当然すぎるほど当然のこと。だって清音か濁音かというのは音韻の問題なのだから。あと、少なくとも後項が和語でないと連濁は起こらない*1。
先週は、漫画の世界に遊ぶときも、ネットの海に漂うときも、ざわざわ人の行き来している学校の廊下を歩くときも、連濁を意識していた。そして連濁の起こる条件をあれかこれかと悩んでみたが、やはり一律には言い難い。そこで発想を逆転させて、連濁は、二つの言葉が和語を後項に複合するところには必ず起こるものと考え、連濁の起こらない条件に絞って一考してみようと思う。
ここではDMM.R18ビデオのタグをネタにじっくりと考察していく。このことについて一言申し上げたい。淫語を素材に選んだのは、断じて奇をてらおうとしたわけでも、ぼくがそういうのが好きで好きでたまらないからでもない。アダルトコンテンツにおいて火薬のように炸裂している言葉たちは、驚くべき複合語生産力を秘めており、既存の名詞・動詞を旺盛に消化している。いささか胃にもたれるくらいだが、これはまさに連濁を考える上でもってこい。ここでは「既存の言葉の消化」というのがミソであり、例えば「青空」であれば、覚えのないほど小さいころから音楽でも聴くように「アオゾラ」と聞いているから、ぽろっと「アオゾラ」と言っているのかもしれない。そうなると濁る・濁らないの世界を支配する法則を考えるのはなかなかどうして楽な作業ではなくなる。日本語の話し手の頭の中で渦を巻く音声音韻の法則がありのままに存分に引き出されるのは、やはり新語・俗語においてだろう。しかし一般の新語・俗語では今度は「既存の言葉の複合語」の要素に乏しくなる。新語・俗語は音の間抜けさやタイプミスをそのまま面白がったり、新しい言葉をでっち上げたりする。一方、性産業は所詮ビジネス以外ではありえないので、金を落としていく客に伝わらねば意味はない。にもかかわらずあくまでもそこには、平和な日常とは明らかに異質な光景の展開される空間が茫洋と広がる。そこで花園には「既存の言葉の複合」があふれてくる。‥‥DMM.R18に行き着いたのは必然の帰結ということになる。
では物は試し、実際に社会の現実を見ていこう。DMM.R18ビデオのタグの中から二語以上の複合語であり、かつ後項形態素が和語であるものだけを拾い出した。そして連濁を生じているものと生じていないものとに選り分けた。
≪連濁あり≫
人妻
若妻
体操着
水着
パイズリ
≪連濁なし≫
潮吹き
セーラー服
制服
和服
寝取り、寝取られ
パンチラ
足コキ
手コキ
即ハメ
ぶっかけ
≪揺れあり≫
巨尻
「巨尻」を何と読むかは人によって揺れがありそう。ウィキペディアでは両々併記していた。ぼくは「きょじり」だと思うしインターネットで検索してみてもそちらの方が多かった。
見てみると、連濁しないもののほうが多い。前述のとおりここでは連濁を生じていないものを論究してみる。
まず潮吹きについてだが、前項が後項の目的語となっている場合連濁を起こしにくい、と授業で習った(金貸し、イカ釣り、恥さらし、窓ふき、穴掘り)。一方、前項が具体的に場所・方向(磯釣り、野ざらし、縦掘り)、道具・手段(信用貸し、水拭き)などの意味を表すときは連濁を起こしやすい。このことはパイズリの一例をもってしても明らか。一般に名詞+動詞連用形の造語があれば誰だってこの名詞は動詞の目的格だと思う。一方で前項が修飾的なのに連結できたということは、それなりに熟合度が高く一語化を完了しているということで、よって連濁しやい。逆に言えば、一語化を完了している言葉であれば前項が後項の目的語であっても濁る。世間にはいくらもこの例がある。縁(ふち)を取ることを「縁どり」、能を書いた言葉を「能がき」、梅を干した食品を「梅ぼし」、片を付けることを「片づけ」と呼ぶ。
次はセーラー服、制服、和服について。これは実はトラップで、「服」は漢語。和語ではないため連濁は起こさない。まあ、漢語でも連濁を起こす例はあるが。手っ取り早く「服」を例にとると、喪に服することを「忌服(きぶく)」という。
なぜ和語でのみ連濁が起こるかと言えば、和語には濁音から始まる単語がないから。「アオゾラ」と聞いてもそれが青い空か青いゾラか思案に暮れることはない。和語に「ゾラ」なる言葉はないので*2。
遥かな昔の話だが、ぼくのTwitterのアカウント名は「ZATOMI」だった。これは中学の頃の、唯一と言っていい友人らしい友人のつけてくれた愛称。「ZATO」はもちろん名字から来ている。初めて聞いたときはわけがわからずうろたえてしまったが、次第に薄紙を剥ぐように僅かずつツボにはまりはじめた。ZATOMI。はらわたに染み透るようなこの面妖な響きも、和語の持つ音声音韻的特質と無関係な話ではないはず。連濁によって生じた/z/音がそのまま頭に出たからこそ妙にウケたのだろう。「SATOMI」だったら、さしたる感慨もない女の子の名前だもの。
一方漢語や西洋語では濁音から始まる単語は山を成す。連結するたびに濁っていては同じ発音の単語がこの世に次々と生まれ落ちてしまう。ただ、無用な調音運動は極力控えようとする経済的傾向はどの言語でも目立っているはず。たとえば、英語ではfive penceを/fɑɪf pens/と発音するらしい。
次は寝取り、寝取られ。これは用言と用言が結合した複合動詞であり、この場合も連濁は起こさない傾向にある。何を言う、「着替える(きがえる)」というではないか、という人がいるかもしれないが、そういう人は座右に置いてある辞書を引いてみてほしい。「きがえる」では載っていないはず。あれは正しくは「きかえる」と読む*3。複合動詞では連濁しないというのは割と明快な原理だが、所詮は原理に過ぎず、反することもある。まさに「きかえる」が「きがえる」と言われるようになったのも、原理より音声音韻的な発声しやすさが優先されたからだろう。先日「腐女子のつづいさん」を読んでいたら「撮りだめる」という表記を目ざとく見つけた。地球は回り、オレたちも回ってるんだぜ。“きのうの清音は、今日も清音”、そんな考えかたはもうお呼びじゃねえ、ってコトさ。
次はパンチラ。パンチラのチラはチラリの略*4。オノマトペもやはり連濁しない。そもそもオノマトペが他の品詞と連結することがないから*5。
足コキ・手コキ。この観測は、先に述べた、前項が具体的に道具・手段などの意味を表すときは連濁を起こしやすい、という理論にムジュンしている。まあ、起こしやすい、なので完全にムジュンしているわけではないが。理由は「コキ」が動詞だという認識が不十分だからだろう。「コキ」は「扱く」という動詞の連用形だが、「パイズリ」の「擦る」に比べると明らかに使用頻度が低い。しかも「コキ」という、この/k/音の連続。どんな陰気な顔もほころばせてしまうような、太平で律動的な「コキ」のトーンが、手コキを手コキたらしめていると言っても一向に差し支えないだろう。「手ゴキ」というのはとても痛そう。顔をしかめてしまう。一方パイズリは満更悪くない。むしろいかにもこすっているという感じがする。かように、そもそも連濁が音声音韻的なファクターで生じるものなので、音声音韻的に連濁を妨げるほかの優先要因が働けば当然連濁は生じない。
即ハメ。これも手コキや足コキと同じ理由で言い開きが立ちそう。あと/h/ /m/音が連続するときは連濁を起こしにくいと授業で聞いた。「姫」や「浜」、「紐」という単語は際立って連濁しにくいらしい。例外も多いとは思うけどなあ*6。
ぶっかけ。そもそも「ぶっ」ってなんだよという話だが、これは「打ちかけ」が変化したもの。「打ち~」→「ぶち~」→「ぶっ~」と変化した。ようするにこれも複合動詞。とはいえ「ぶっ」に変われば、これはもはや用言と用言の結合とは言えないのではないかと思い辞書で洗いざらい調べたが、「ぶっ」のあとで連濁している動詞はなかった。もちろん「打ち」や「ぶち」のあとで連濁しているものもなかった。「ぶっぱなす」の「ぱ」は別問題。促音化とセットで起こる半濁音化というもの。「打ち放す」、「ぶち放す」までは「はなす」だが、「ぶっ」になった瞬間「ぱなす」に変わる。
以上みてきたが、どう感じただろうか。まあ正直、めぼしい発見もなく、結論が収斂することなく、わざわざ見に来るほどもないと思われても致し方ない記事だった。ぼく自身いささか話の落としどころに困っている。あたかも蛇がしっぽを咥えているような、こじつけめいたところもあったろう。それはやはり言語変化の進行にはそもそも理屈がないからかもしれない。
一つ連濁について小首を傾けながら思ったのは、形の併用は言語に常にみられる自然の理だということ。ここでいう形の併用は、ありとあらゆるレベルでの併用を指す。「〇ザト」と「〇サト」であり、「撮りためる」と「撮りだめる」であり、「巨じり」と「巨しり」であり、もっと言えば連濁そのものであり、あるいは「見られる」と「見れる」である。いずれの派生についても、針路があるとしたらそれは、人間の必要を満たすという方向を辿ることになろうが、人間の必要は各人各様なので、それぞれの言葉は統一と分化の微妙なバランスの上に立つことになる。この点において「ソラ」が後項では「ゾラ」に濁ることと「見られる」の「ら」が抜けることとの間に相違はないし、この一点のみが本質なのではないか‥‥。
“言語の等質性”という強大な仮構に思いを致しつつ、「ミニ系」のタグをクリックするのであった。
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以上である。gooとは事情が違うが、DMM.R18も今は無きサイト名だ。今はFANZAというらしい。へー、知らなかったな。
*1:研究では「後項が和語だと連濁しやすく、漢語・外来語はしにくい」という傾向が示されているが、「漢語でも連濁する語(不足→運動不足、会社→株式会社、鉄砲→水鉄砲など)が少なくない」ことが明記されている。よって「和語でないと起こらない」と断言するのは誤り。
*2:「和語の形態素が語頭に有声破裂音を持つことは非常にまれ」とされるが、「ゼニ」など語頭濁音とされる和語候補も指摘されており、「全く存在しない」とまでは言えない。ただし、「ゾラ」に関しては、一般的な和語としては確かに辞書に見当たらない。
*3:厳密な規範的辞書や古い版では「きかえる」を見出しとするが、現代の多くの辞書(デジタル大辞泉、Weblio等)では「きがえる」も許容、あるいは併記している。「載っていないはず」というのはやや言い過ぎだが、本来の読みが「きかえる」であるという指摘は正しい。
*4:オノマトペの短縮は日本語の一般的パターンであり、「パンチラ」が「パンツ+チラ(リ)」の略とする俗説は広く流通しているが、学術的に厳密な語源証明は難しい。
*5:オノマトペ+名詞のような複合自体は(「ドキドキ感」など)存在するので、「他の品詞と連結することがない」という部分は言い過ぎ。
*6:「紐」「浜」「姫」などが連濁しにくいのは事実だが(これらは単音節語や特定の名詞クラスとしての制約と考えられる)、音韻論的に「/h/ /m/音が連続すると連濁しない」という一般的な法則(ライマンの法則のようなもの)は確立されていない。特定の条件下での傾向の可能性がある。