Short-Lived Musings

つかの間の物思い

そちらの日本語の方、マナー違反の形になりますがよろしかったでしょうか

 新年度ということで(?)、マナー講習を受けさせられた。いわゆるマナー講師と呼ばれる人が来て、一通りのことを教えてくれた。マナー講師って実在したんだ。「脳にマナーを刷り込んでいきましょう」って言っていて怖かった。でも、結局のところ、人と接するときに一番大切なことは「相手に不快感を与えないこと」だと思うんだよな。そういう意味ではマナー講師は矛盾を抱えた存在である。
 正しい日本語を使いましょうという話があったのだが、その例として出てくる「いまいちな日本語」が個人的に興味深かった。決して誤用ではなかったし、使いたくなる気持ちもわかるものだったからだ。挙がったものは4つある。それぞれについて、新明解国語辞典を手掛かりに規範的な語義を示したうえで、なぜそのような用法が広まったのか、私なりになるべく好意的に理解してみようと思う。

①「形」

 「いったん会員登録していただく形になります」とか「こちらで指定させていただく形なんですけど」の「形」だ。辞書を引くと以下のように解説されている。

(二)物事の表に現われている様子。 「—の上では/ 欠勤の— 〔=表向きは欠勤という体裁〕 を取る/ わびを入れた— 〔=という体裁〕 だ」

 これを好意的にとらえるなら、中身の議論に立ち入らない姿勢が慎み深い。「いったん会員登録していただく形になります」は「でも別にあなたに会員としての義務が発生するわけではないです。無料ですし、常連として通わなくてもいいです」を含意する。「こちらで指定させていただく形なんですけど」は「でも本当はあなたの自己決定を尊重したいと思っているし、その可能性が微塵でもあれば自由意志発動チャンスをあげる」というニュアンスを付与する。本音と建前と言ってもいい。ここには「あなたや私の本音は置いておいて」という留保がある。この留保を留保たらしめているのが、「形」という言葉である。

②「よろしかったでしょうか」

 「ご注文、バナナシェイクでよろしかったでしょうか」の「よろしかったでしょうか」である。問題は「た」にある*1。「た」は過去のことを表すときに使うからおかしい、というのが奴らの主張である。本当か。

(一)その事柄が すでに実現し、 結果が現われているものと△認められる (見なす) という主体の判断を表わす。 「きのう雨が降っ—/ 新聞はもう読んだ/ この辺は昔は寂しかったろう/ 私がやったら出来なかっ—/ 今度会っ—時に話そう/ 済まなかっ—ね 〔=本当に済まないね〕/ あしたは月曜だっ—っけ/ 帽子をかぶっ— 〔=かぶっている〕 人/ 絵にかい— 〔=かいてある〕 ような景色」

 どこにも過去とは書いていない。そして注目すべき用例は「今度会った時に話そう」「あしたは月曜だったっけ」あたりである。いずれも「今度」「あした」と未来のことを「た」で受けている。この点について辞書は以下のように解説している。

「今度の企画会議は明後日の三時からだったね」 「今日は夜、 木村君と会う約束があったな」 などの 「た」 は文脈から明らかに未来に関する事柄を表わすのに用いられている。 この種の 「た」 は実現していない事柄であっても (恣意的な変更の許されない) 確定的だと判断されることを表わしており、 多く、 既成の事実だと思われていることを確認する意を含意する表現に用いられる。

 また「よし、 これで勝った」や「そこにいては邪魔だ。 どいた、 どいた」 「用のない者は帰った、 帰った」などについても同様の解釈を指摘している。

 マナー分野における私の分析では、相手の発言を既成事実とすることで、相手が追認するのに必要な精神的エネルギーの消費を抑えさせてあげる、あるいは相手の発言を一発で聞き取っているということを無意識にアピールするなどの効果がある。しかし、厚かましい。私は「よろしかったでしょうか」を言われると、「いえ違います」と訂正・変更できなくなる。それはまさに「た」が持つ「恣意的な変更の許されない」ニュアンスに他ならない。

③「方」

 「ご注文の方繰り返します」の「方」。これは二つの語義にまたがる。

[一](二)大体その方向に当たる所。 〔直接指すのを避けた言い方に用いる〕 「中野の—に住む/ 日銀の—に勤めている/ —面・ 遠— (ポウ) ・ 先— (ポウ)」

(三)物を幾つかに分け (て考え) た場合に、 条件に合うものとして選ばれた一つ。 「もう一つの—が大きい/ 先に着いた—が勝ちだ/ 好きな—を取れ/ 食べる— 〔=ことに関して〕 では負けない」

 さらに項目の最後に以下のような解説がある。

[運用][一](三)の意で、 例えば、 料理店の卓上にいくつか皿が並んでいる場面で、 「空いたお皿のほうお下げします」 と用いられるのには違和感を感じないが、 一枚しかない (それしか選択の余地がない) のにそう言われるのは、 「方 (ホウ) [一](二)」 の乱用だとされる。 「お代金のほう一万円になります/ 以上でご注文のほうはよろしいでしょうか」 なども同様の例。

 あくまで「乱用」と表現するにとどめており、誤用とは言っていない。しいて肩を持つならば、具体的な言動を「方」で受けてちょっと距離を取っているのが奥ゆかしい。たとえばあなたがSM趣味を有していたとして、趣味を尋ねられれば「趣味はSMプレイの方を少々……」と言うだろう。決して「趣味はSMプレイをたしなんでいます」とは言わないはずだ。同様に、お客様を神様とする接客業の店員にとって、代金とか注文とかの俗事にはっきり言及するのははばかられるのだ。

④「になります」

 これは事情が違う。誤用だ。敬語ではない。「全部で1万円になります」の「になります」を「です」のさらに敬意高いバージョンと勘違いしているのだ。たしかに「になります」が高めの敬意を表す用法はある。でもそれは動詞の連用形と合わさって「お~になる」の場合だ。

(四)〔「お+動詞連用形+に—/ ご…に—」 の形で〕 立場の上の人の動作を述べることを表わす 〔=尊敬表現〕。 「先生がお帰りに—/ ご覧になりますか」

 「全部で1万円になります」の「なります」は「及ぶ」と同義である。「なる」自体に敬意はない。

[三]〔「為 (ナ) す」 の自動形〕 〈なにニ—〉(一)今までとは違った状態に変わる。 「古く—/ 水が湯に—/ 年ごろに— 〔=達する〕/ 男に—/ 三時に—/ 全部で一万円に— 〔=及ぶ〕/ お金に— 〔=金もうけが出来る〕/ おもしろくなって来た/ じれったく— 〔=感じられる〕/ 役人に— 〔=身分が変わる〕/ 苦労が薬に— 〔=…として役立つ〕/ ために— 〔=有効である。 直接役立つ〕」

言葉とマナー

 マナー講師が問題視する日本語は、「になる」を除いて、語彙・文法的には辞書で定義されている域を出ない。でも私はマナー講師に反旗を翻したいわけではない。これらの用法はたしかにあまりよろしくはないのだ。「方」は新明解国語辞典の言葉を借りるなら「乱用」だ。「形」と「よろしかったでしょうか」も乱用されている。

 マナー違反とされる理由の核はここにある。つまり、特定の言い回しを使い回せば距離感を演出できて敬意を表せると思っている、その浅ましさが減点対象なのだ。

 ちなみにそのマナー講師は本筋と関係ない雑談の中で「短気で、卑屈で、胃に穴が4つ開いていたけど、マナー講師を始めてから順調」と述べていた。しかしその分析は物足りない。短気で卑屈であることが肯定される身分になったととらえるのが正しい。われわれはその日一日、「講習」という名の救済の物語を見ていたのだ。

 「短気で卑屈」。この自己分析は、敬語の本質を突いている。「短気で卑屈」な人間ばかりが集まった社会などあるわけがない。ないなら作ればいい。これがマナーの思想である。卑屈になりつつ、他者にも卑屈であることを求め、それに応じない者がいたら、人の中身を見る前に軽蔑して排斥する。敬語、ひいてはマナーとはそうやって拡大再生産されるものである*2

*1:断じて「バナナ」の発音ではない。

*2:逆に敬語を完璧に使いこなせたところで、相手を敬っているとは限らない。敬語を完璧に使いこなしたうえで内心では相手をおちょくっているような人がいたら痛快である。私はそういうキャラクターを一人知っている。古畑任三郎だ。