Short-Lived Musings

つかの間の物思い

偏見の構造

  • 差別主義者が同性愛者に感じる感覚をあえて言語化すれば「精神的に醜い」「そばにいるとこっちにまで影響が及びそう」という風になる。ちなみに私は大阪弁をしゃべる人や、サッカー経験者に対して似たような感覚を抱いているので、人のことは言えない

 

 

  • 実際「大阪弁は聞くのも嫌だ」とか「サッカー選手の隣に住むのも嫌だ」とか言ってもそこまで問題にはならないことを考えると*1、反差別の核にあるのは平等とか公正とかいう理念より、「少数者の受難の歴史への反省」とか「傷の回復を邪魔しない」みたいなところにある*2。たとえば関西弁云々を関西人のメンタリティを根拠に言うのと同和問題に引き付けて言うのとでは違う。「苦しんできた人を"これ以上"傷つけない」ということが大事。過去をチャラにして現在を考えることはできないのだ。
  • この感覚の延長に「女性議席を設けるべきか」みたいな議論がある。ポジティブアクションと呼ばれるが、私はこのポジティブというワードを、「「傷の回復の邪魔をしない」にとどまらず回復そのものを引き受けようとする積極性」という意味で理解している。
  • 今年のM-1ウエストランドがすんでのところで炎上しなかったのは、銃を向けた相手がコアなお笑いファンとかユーチューバーとか路上で勝手に歌っている人とか、まだ傷を受けていない人がメインだったからだ*3。でも一度「ネタにしていいんだ」となると新たな偏見の源泉になるのでやはり良くない。いじめとか偏見って、みんなもやっているから一緒にやれてしまう点に醜さがある。裏を返すと、まだみんなが言っていないことを指摘したとき・指摘を聞いたときには、胸がすくような壮挙に思えるわけだが、やはり伝播性に敏感にならなければいけない。伝播性が時間軸に沿って再生産され始めたとき、誰かの受難の歴史が始まる。

  • 「私は関西弁をしゃべる人や、サッカー経験者に対して似たような感覚を抱いている」という一文が誤解を招いたのであれば申し訳ない。撤回して謝罪します。

*1:「そこまで問題にならない」と思っているのは、どうせこんなブログを読むような人は遠からぬ感覚を持っているだろうという最低の甘えによるものであり、岸田首相の秘書官がオフレコで取材に来る記者に抱いていた感情と何ら変わらない。そして彼の目論見が全く外れていたことを考えると私もうかうかしてはいられない

*2:平等とか公正とかいう理念と「少数者の受難の歴史への反省」とか「傷の回復を邪魔しない」みたいなところは背反ではないかもしれない。前者が後者を含むと考えることもできる

*3:さや香真空ジェシカTwitterで一定の支持を集めたのは、高齢者がM-1を見ないから(見てもTwitterに感想を投稿しないから)であり、高齢出産いじりやシルバー人材いじりは、偏見という観点からはかなり危うさをはらんでいた。ちなみに毒や傷つける笑いが悪とされるのは、ポリティカルコレクトネスのおかげでもあるが、自分が傷つきたくないからでもある。そう考えると、この場合の「毒」も、やはり「偏見」とイコールであり、有吉や鬼越の個人攻撃が愛されるのも納得がいく