Short-Lived Musings

つかの間の物思い

ダ・ヴィンチ・恐山の思想

 ダ・ヴィンチ・恐山というライターがいる。品田遊という名義で小説やエッセイを書いている。自分は小学生の時地元の図書館で「名称未設定ファイル」を見つけて、なんかタイトルと表紙が変だと思ったので借りて読んだ。中身も面白かったので他の作品も読もうと思い著者名で検索したが、ほかの本が見つからず、それきりだった。その後高校生になって、オモコロというウェブメディアを定期的に見るようになり、そこで記事を書いているダ・ヴィンチ・恐山が同一人物だと知った。Twitterで定期的にバズっているダ・ダ・恐山も同一人物だった。

 

 おととし久しぶりに新刊「ただしい人類滅亡計画」が出た。もちろん買って読んだ。去年付き合っていた彼女にも貸したが、あまり感想を言ってくれなかった。

 

www.eastpress.co.jp

 

 何に価値を見出すか(見出さないか)、いろいろな主義が、デフォルメされたキャラクターになっていて、反出生主義をめぐりSS風の会話劇を繰り広げる。ただし討議の結果によって本当に全能の魔王様から滅ぼされてしまう。それぞれの登場人物たちは、反出生主義にどういう立場をとるかというより、それ以前の人生観とか正義観がキャラクタライズされている。悲観主義のブルー、楽観主義のイエロー、共同体主義のレッド、懐疑主義のパープル、自由至上主義のオレンジ、相対主義のシルバー、利己主義のゴールド、原理主義のホワイトなど。ファンタジー版「マイケル・サンデルハーバード白熱教室」とでもいうべき趣になっている。フォーマットとして秀逸すぎるのでいろんな題材でやってほしいと思っていたが、今はそれは違うと考えている。反出生主義という、人類全員に関係ある、それでいて壮大でちょっと現実感のない議論だからこその面白さだった。「年金は世代間の助け合いであるべきか」とかでこのフォーマットを取ると、生々しすぎる。

 

 遅ればせながら彼の最新作であるエッセイ「キリンに雷が落ちてどうする」を読み終わった。

 

publications.asahi.com

 

 自分の思想・意志・感情を伝えるのが上手すぎる。朝日新聞出版の「品田遊さんの思考回路の軌跡を辿るぜいたくな一冊!」という売り文句もすごい。思考回路をたどるのがぜいたくと表現されるのは作家冥利に尽きるだろう。

 この売り文句にたがわない充実した本だったが、特に恐ろしさすら感じたのは、インターネットにおけるポリコレやリベラルへの冷笑について書いた部分。

 

なるべく誠実でありたいが、不誠実を糾弾されるのは当然かなり嫌で、でもそれを理由にして自分自身についてのスタンスを空洞にして外部の落ち度に言及するだけの、インターネットの筒になるのはもっと嫌だ。紅組にも白組にも参加したくないし、私に賛成して信じる人もいらない。でも叩かれたくもない。何かのクラスタに属するのも、属さない人たちの乾いた連帯に取り入れられるのもやだ。今日生まれて今日死ぬ人として毎日を生き、正しいことをしたい。

 

 節の最後の一段落だったこともあり、ちょっとした宣言文みたいになっていた。かっこいい。

 

 直前の箇所で「露悪的で冷笑的な皮肉屋のことは私は大好き」と書いているし、ファンからそういう扱われ方をすることも多いが、彼はいわゆる冷笑系とは違う。インターネットに冷笑系がはびこった結果、冷笑系オタクを冷笑することが今、最先端のシニシズムになっている。「環境に対するメタのメタ」みたいなeスポーツの次元に突入している。でも彼はそういう勝負には乗っていなくて、ひたすらルールの話をしている。討議の中身より、枠組みに興味がある。「ただしい人類滅亡計画」を読んだ時も思ったが、英米系の法哲学、正義論を勉強している・いたはずだ。オモコロのYouTubeチャンネルでの紹介動画では「哲学くん」と揶揄される場面もあったが、彼の興味関心は倫理学に近い。

 

世の中をもっと良くしていこう。対話しよう。多様であれ。そういう言説には全身全霊で「それは、ほんとうは嘘だ」と感じてしまうのだが、だからこそ、それが「嘘である」と「言う」ことで築けるポジションにはより強い嘘と嫌悪を感じる。私はやっぱり、言葉は理想を語るためにあるとどこかで思っているのだろう。

 

 恐山はたしかにニヒルな男だ。だけどニヒリズムは(ニヒリズムに限らずいろいろな思想は)行くところまで行くと自分を対象にせざるを得なくなる。ニヒリズムニヒリズムを標的にすると、一周回って、ナイーブなまでのヒューマニズムが回帰する。ちなみにヒューマニズムが回帰しないパターンとしては、本当に人生と世の中のむなしさを意識して自殺してしまうパターンや、一切の秩序や権威を破壊しようとして当局に捕まる人、ヒューマニズムほど壮大な物語にはたどり着かなくて、一歩手前のナショナリズムにとどまるパターンなどがある。

 ヒューマニズム回帰までは割と誰でもたどり着きやすい。恐山のすごいところは、その先、感動や共感といった実存の充実を、現実それ自体と取り違えていないところだ。サンタさんは信じないけど、だからこそ、25日の朝、親からの愛情こもったプレゼントとして、枕元にあるおもちゃに感動できる。でもその愛情や感動にはとらわれない。クリスマスは既成の制度であるという立場を崩さない。例えるならそういうことだ。ニヒリズムが一周回ってヒューマニズムになるということは、やっぱりニヒリズムと地続きのヒューマニズムなのだ。彼はそのことを忘れない。

 本人がどう考えているかはわからないが、私はこのエッセイを読んで、自分の生きがいを創造する自由と責任について考えた。そこがまさにニヒリズムヒューマニズムの接点だからだ。「選択や行動によって「自分なりの」人生の意義や目的を創造することができる」という事実と、「人生に「客観的な」意義や目的はない」という事実、どちらに主軸を置くべきなんだろうか。

 

(「期待しない人生を演じることで、なにがしかの見返りを期待する」という)浅ましさなしに人生を耐えられるひとなんてほとんどいないと思います。みんなも程々に、人生に期待しよう。

 

 「期待」か……。期待も、対話や多様、理想、愛情、感動、意義、目的と同じ側にある言葉だ。それらを「嘘だ」「浅ましい」と断じつつ、茶番を肯定する。2番目に引用した箇所にも共通する論理だ。これが彼の境地だ。人生にまつわる諸々がどれほどこっけいでも、それらを思考の対象から外さない。狙いが見え透いた行動の、その狙いの意味を考慮する。これはとてもすてきで、誠実で、知的な態度だ。たしかに、その先にはなにがしかの見返りがあってしかるべきだ。

 

 ニヒリズムヒューマニズムが交わる先に何があるのか。

 

 

 まさかコロコロコミックの読者投稿欄だとは思わなかった。でも小学生男児が排泄物の絵で笑うのって、虚無(ニヒリズム)と平和・幸福(ヒューマニズム)の融合に他ならない。そう思わないだろうか。違うか。