Short-Lived Musings

つかの間の物思い

今週の日記

ワンテーマで書く気力・ネタはあるのだが、時間がないので、小ネタの寄せ集めでしのぐ。

 

・「少子化対策」と「同志社大学」で韻が踏める。

国会議事堂前駅にある自動販売機は、異様にレモン製品が充実していた。

ウマ娘グッズを知り合いの女性に見られたときに「なんか意外ですね。二次元お好きなんですか」と言われた。それに対して「いや、ウマ娘は(二次元じゃなくて)3Dモデリングですよ」という返答をしてしまった。

ゴールデンウィークという言葉を聞いたとき一瞬「「ゴールデンウィーク」って何だったっけ。いかにもウマ娘にいそうな名前だ」と思った。ここ数年ゴールデンウィークと縁のない生活を送っていたので忘れかけていた。スペシャルウィークも、一昔前はセールの名前としか認識していなかったが、今では「あの子」になっている。

・マダムタッソー東京のロッカールームには巨大な葉加瀬太郎がいる。バイオリンをロッカーで隠されているので、ただアフロで棒を持ったおじさんが壁に描かれている状況になっている。しかも左からウィリアム王子&キャサリン妃→オードリーヘップバーン→葉加瀬太郎という並び。いや、別にいいんだけど、その流れで葉加瀬太郎が来るのか??

・「ネット右翼は司令官目線で戦争を語る」の亜種として「労働者がコンサル目線で経営を語る」というのもあるのではないか。インターネット上の仮想人格としてどれほどのステータスを選ぶか問題は、インターネット上で(それなりに)活動する多くの者にとって重要な課題だ。たとえばこの記事に書いてあることの多数は今週Twitterに投稿した内容なのだが、細かな表現に変更が加えられている。それはまさにTwitter上での仮想人格とブログ上での仮想人格の差だ。常に等身大の自分でいられる人ってどのくらいの割合いるのだろうか。私は、自分がその一人だとは思わない。

YouTube新興宗教のゆっくり解説動画を上げているチャンネルがある。霊夢魔理沙の代わりに、麻原彰晃池田大作の画像を使っているし、キャラクターとしても現実世界での彼らを引き継いだ設定となっている。不謹慎極まりないのだが、説明の真摯さとゆっくり音声というフォーマットの「毒にも薬にもならなさ」から、不思議と不快感は少ない。どう考えても悪趣味なのに、このフォーマットでやられると「解説動画」として成立し、受け入れてしまう。そのギャップが奇妙で面白い。それくらいにゆっくり音声・解説がフォーマットとして確立されているということなんだろう。*1

www.youtube.com

・相手の容姿を褒めたり自分の容姿を自虐したりするのもルッキズム的ハラスメントの一形態だという話がある。それとパラレルな話で、学歴を褒められて謙遜した結果相手に失礼になってしまうことがある。特に大学の偏差値や浪人の有無・年数などは数値化されているので、下手に謙遜すると自分以上に相手を貶める危険がある。学歴を褒められたときは内心で「私よりすごい人間なんてごまんといます。が、それはそれとして、学歴が人の優秀さを担保する時代ではなくなりつつあります。が、さらにそれはそれとして、私の能力のいかんにかかわらずあなたは私にもっと興味を持つべきです」と言いそうになるのをこらえて「ありがとうございます。でもまだまだなので勉強頑張ります」と答えるようにしている。

・高校の同窓会に出席した。男子の一人が遅刻していた。女性陣がその人のことを「○○君は高校時代全然女子と話してくれなかったから会うのが楽しみだ」と言っていた。私はそれを聞いて内心「でもそれを言えば俺だって女子の皆さん方と話したことないんだが?」と思った。それ以降ずっと劣等感で積極的にしゃべれずにいたら、会は終了した。「露骨に馬鹿にされた」とか、「自分以外で二次会が開かれた」とか、そういうやわな「高校時代冴えなかったやつあるある」に吸収されない、真の孤独と愚かさがここにはある。自分はこの歳になってもここまで未熟なのかと驚くとともに、そんな自分がかわいくてかわいくてしょうがなかった。

*1:一応書いておくと、彼らを学問的、歴史的な観点から面白いと思うことは構わない。しかし彼らが信者を支配するために操作的な戦術を用い、個人やコミュニティに大きな損害を与えてきたのは周知のとおりである。彼らの行動や信仰を批判的に評価せずに、彼ら自身やその教えを賛美したり面白半分で宣伝したりすることは適切ではない。バランスのとれた視点で彼らの言動を調べ、彼らが引き起こした・ている潜在的な害をも認識することが不可欠である。

人工知能による文章をブログに載せるべきではない理由

 この記事では、人工知能による文章を自分が書いたかのようにブログに載せることについて、仮に自分で書くだけのやる気がないとしても絶対に避けるべき理由を説明する。以下の3つのデメリットを考慮することで、この問題について考えてゆく。

①誠実性を維持することができない

 たしかに人工知能が文章を作成するのは合法であり、技術革新によるものだ。しかし人工知能による文章は、それを作成した人間の知識や感情、価値観を反映していない。ブログは個人的な見解や経験を共有する場所であり、人工知能による文章を載せることは、読者に対して誠実ではない。

②読者とのつながりを構築することができない

 人工知能による文章は、読者とのつながりを構築するのに役立たない。読者とのつながりを構築するためには、人間同士が直接コミュニケーションを取る必要がある。人工知能による文章では、読者に対するリアルな反応やフィードバックを提供することができない。したがって、読者とのつながりを構築するのには適していない。

③自己表現の場を提供することができない

 人工知能は、自己表現のためのツールではない。自己表現のためには、個人が自分の知識、経験、思いを言葉で表現する必要がある。人工知能による文章は、個人の独自性やアイデンティティを表現することができない。したがって、自己表現の場を提供するのには適していない。

まとめ

 以上から、人工知能による文章を自分が書いたかのようにブログに載せることは避けるべきだ。読者との誠実なつながりや、自己表現の場を提供するためであれば、自分の言葉で書くべきである。

ダ・ヴィンチ・恐山の思想

 ダ・ヴィンチ・恐山というライターがいる。品田遊という名義で小説やエッセイを書いている。自分は小学生の時地元の図書館で「名称未設定ファイル」を見つけて、なんかタイトルと表紙が変だと思ったので借りて読んだ。中身も面白かったので他の作品も読もうと思い著者名で検索したが、ほかの本が見つからず、それきりだった。その後高校生になって、オモコロというウェブメディアを定期的に見るようになり、そこで記事を書いているダ・ヴィンチ・恐山が同一人物だと知った。Twitterで定期的にバズっているダ・ダ・恐山も同一人物だった。

 

 おととし久しぶりに新刊「ただしい人類滅亡計画」が出た。もちろん買って読んだ。去年付き合っていた彼女にも貸したが、あまり感想を言ってくれなかった。

 

www.eastpress.co.jp

 

 何に価値を見出すか(見出さないか)、いろいろな主義が、デフォルメされたキャラクターになっていて、反出生主義をめぐりSS風の会話劇を繰り広げる。ただし討議の結果によって本当に全能の魔王様から滅ぼされてしまう。それぞれの登場人物たちは、反出生主義にどういう立場をとるかというより、それ以前の人生観とか正義観がキャラクタライズされている。悲観主義のブルー、楽観主義のイエロー、共同体主義のレッド、懐疑主義のパープル、自由至上主義のオレンジ、相対主義のシルバー、利己主義のゴールド、原理主義のホワイトなど。ファンタジー版「マイケル・サンデルハーバード白熱教室」とでもいうべき趣になっている。フォーマットとして秀逸すぎるのでいろんな題材でやってほしいと思っていたが、今はそれは違うと考えている。反出生主義という、人類全員に関係ある、それでいて壮大でちょっと現実感のない議論だからこその面白さだった。「年金は世代間の助け合いであるべきか」とかでこのフォーマットを取ると、生々しすぎる。

 

 遅ればせながら彼の最新作であるエッセイ「キリンに雷が落ちてどうする」を読み終わった。

 

publications.asahi.com

 

 自分の思想・意志・感情を伝えるのが上手すぎる。朝日新聞出版の「品田遊さんの思考回路の軌跡を辿るぜいたくな一冊!」という売り文句もすごい。思考回路をたどるのがぜいたくと表現されるのは作家冥利に尽きるだろう。

 この売り文句にたがわない充実した本だったが、特に恐ろしさすら感じたのは、インターネットにおけるポリコレやリベラルへの冷笑について書いた部分。

 

なるべく誠実でありたいが、不誠実を糾弾されるのは当然かなり嫌で、でもそれを理由にして自分自身についてのスタンスを空洞にして外部の落ち度に言及するだけの、インターネットの筒になるのはもっと嫌だ。紅組にも白組にも参加したくないし、私に賛成して信じる人もいらない。でも叩かれたくもない。何かのクラスタに属するのも、属さない人たちの乾いた連帯に取り入れられるのもやだ。今日生まれて今日死ぬ人として毎日を生き、正しいことをしたい。

 

 節の最後の一段落だったこともあり、ちょっとした宣言文みたいになっていた。かっこいい。

 

 直前の箇所で「露悪的で冷笑的な皮肉屋のことは私は大好き」と書いているし、ファンからそういう扱われ方をすることも多いが、彼はいわゆる冷笑系とは違う。インターネットに冷笑系がはびこった結果、冷笑系オタクを冷笑することが今、最先端のシニシズムになっている。「環境に対するメタのメタ」みたいなeスポーツの次元に突入している。でも彼はそういう勝負には乗っていなくて、ひたすらルールの話をしている。討議の中身より、枠組みに興味がある。「ただしい人類滅亡計画」を読んだ時も思ったが、英米系の法哲学、正義論を勉強している・いたはずだ。オモコロのYouTubeチャンネルでの紹介動画では「哲学くん」と揶揄される場面もあったが、彼の興味関心は倫理学に近い。

 

世の中をもっと良くしていこう。対話しよう。多様であれ。そういう言説には全身全霊で「それは、ほんとうは嘘だ」と感じてしまうのだが、だからこそ、それが「嘘である」と「言う」ことで築けるポジションにはより強い嘘と嫌悪を感じる。私はやっぱり、言葉は理想を語るためにあるとどこかで思っているのだろう。

 

 恐山はたしかにニヒルな男だ。だけどニヒリズムは(ニヒリズムに限らずいろいろな思想は)行くところまで行くと自分を対象にせざるを得なくなる。ニヒリズムニヒリズムを標的にすると、一周回って、ナイーブなまでのヒューマニズムが回帰する。ちなみにヒューマニズムが回帰しないパターンとしては、本当に人生と世の中のむなしさを意識して自殺してしまうパターンや、一切の秩序や権威を破壊しようとして当局に捕まる人、ヒューマニズムほど壮大な物語にはたどり着かなくて、一歩手前のナショナリズムにとどまるパターンなどがある。

 ヒューマニズム回帰までは割と誰でもたどり着きやすい。恐山のすごいところは、その先、感動や共感といった実存の充実を、現実それ自体と取り違えていないところだ。サンタさんは信じないけど、だからこそ、25日の朝、親からの愛情こもったプレゼントとして、枕元にあるおもちゃに感動できる。でもその愛情や感動にはとらわれない。クリスマスは既成の制度であるという立場を崩さない。例えるならそういうことだ。ニヒリズムが一周回ってヒューマニズムになるということは、やっぱりニヒリズムと地続きのヒューマニズムなのだ。彼はそのことを忘れない。

 本人がどう考えているかはわからないが、私はこのエッセイを読んで、自分の生きがいを創造する自由と責任について考えた。そこがまさにニヒリズムヒューマニズムの接点だからだ。「選択や行動によって「自分なりの」人生の意義や目的を創造することができる」という事実と、「人生に「客観的な」意義や目的はない」という事実、どちらに主軸を置くべきなんだろうか。

 

(「期待しない人生を演じることで、なにがしかの見返りを期待する」という)浅ましさなしに人生を耐えられるひとなんてほとんどいないと思います。みんなも程々に、人生に期待しよう。

 

 「期待」か……。期待も、対話や多様、理想、愛情、感動、意義、目的と同じ側にある言葉だ。それらを「嘘だ」「浅ましい」と断じつつ、茶番を肯定する。2番目に引用した箇所にも共通する論理だ。これが彼の境地だ。人生にまつわる諸々がどれほどこっけいでも、それらを思考の対象から外さない。狙いが見え透いた行動の、その狙いの意味を考慮する。これはとてもすてきで、誠実で、知的な態度だ。たしかに、その先にはなにがしかの見返りがあってしかるべきだ。

 

 ニヒリズムヒューマニズムが交わる先に何があるのか。

 

 

 まさかコロコロコミックの読者投稿欄だとは思わなかった。でも小学生男児が排泄物の絵で笑うのって、虚無(ニヒリズム)と平和・幸福(ヒューマニズム)の融合に他ならない。そう思わないだろうか。違うか。

カラフルで透明なアーチ

 ある日Twitterに珍現象の写真が投稿された。

 東京の空に架かる巨大なアーチの画像だ。アーチはとてもカラフル。内から外にかけてグラデーションがあり、外側は赤色、そして緑を経由して、内側は暗い青色になる。だが半透明だった。

 最初は合成画像かと思ったが、複数人が微妙に異なる角度から同じアーチの写真を撮っていた。それぞれのアカウントはバズ狙いの合成などしそうにない雰囲気だったので(たとえばサッカーが好きそうな高校生とか、金融系のニュースをリツイートしているサラリーマンとか)、私はその写真を信じることにした。

 ツイート内で撮影場所に言及している人がいたので、場所はすぐに判明した。不思議なことに、そのアーチの真下にいる人は気づかなかったらしい。地上と連結しているわけではなく、浮いているのだろうか。あれだけでかいと誰かが気づきそうなものだが、影はできなかったようだ。そして、しばらくたつと消失したとのことだった。まるでつかみ所の無いホログラムのような存在だった。

 この投稿を見たとき、私は恐怖よりも先に興奮を覚えた。何だろう、あのアーチは。とにかく謎めいた存在だったのだ。

 世間の反応も同様だった。

 これらの写真はたくさんリツイートされ、話題になった。翌日朝の情報番組でも取り上げられ、専門家が質問攻めに遭っていたが、うかつに適当なことは言えないという感じでお茶を濁していた。

 この話は海外でも話題になった。しばらくたったある日、今度はアメリカ南部で同様の現象が確認された。さらにはパプアニューギニアとタイで、同日に観測された。その後、世界各地でこの謎の現象が観測され始めた。

 ネット上にはそれらの画像から共通点を発見しようと試みる人たちがいた。時間帯や緯度経度、スマホカメラの性能などを検証したのだ。しかし残念ながら、それらしき共通点は見つからなかった。

 そんな中、とあるアメリカ人が「これらのアーチが現れる地点では、直前まで雨が降っていたようだ」とツイートした。突飛な話だったが、その人はリプライ欄で丁寧に他人の画像付きツイートを引用しつつ解説していたので、すぐさま信憑性の高い説としてちまたに流布した。

 ただその事実が何を意味するかは誰にもわからなかった。最初のうちはみんなただ珍しいだけ、美しいだけと思っていたようだったが、次第に不気味さを感じ始めたのか、SNSでは、アーチの発生機序などどうでもよく、それをどう解釈するかに熱をあげる者が出始めた。最も支持されたのは「終わりの始まり」的な終末論ではなく、「これは天の国につながる門である」という解釈である。雨上がりの青空に表れる、巨大でカラフルな門。降る雨に迫害の歴史を投影すれば、たしかにこのアーチは宗教的な希望の象徴と思えるかもしれない。新たな神話の始まりだという人さえ現れた。

 宗教的な解釈とは別に、ただの物珍しさから、アーチの発生(とその前触れとなる雨)を待つ集まりもできた。狙い通り見られる人もまれにいたが、それはほんの一部。ほとんどの人はアーチを見られなかった。それでも彼ら彼女らは諦めず、アーチの出現しそうなポイント付近で張り込みを続けた。中には寝袋を持ち込んで夜通し待ち続ける者もいた。しかし多くの場合結局何も起こらず、人々は失望して解散した。

 実を言うと私もその一人だ。三度挑戦をしたのだが、ダメだった。夜中に見られたという話は聞かないので、朝方にトライしてみたのだが、空には雲があるばかりで、何も現れなかった。ただ靴がぬれただけである。

 一方でこの現象を科学的に解明するプロジェクトも始まった。部分的にでも素材を回収しようとした。しかしやはりこのアーチには実態がないようだということがわかった。アーチが存在するであろうあたりの大気を調べてみても、一般的な大気中に含まれる成分と変わらない。ただし、直前まで雨が降っていることは関係あるようで、そのあたりを利用してなんとか観測できないかという研究が続けられているそうだ。雲をつかむような話である。

 こうして様々な憶測が生まれた。アーチの正体は何か? なぜこんなことが起きているのか? そしていつか終わるのか? これらの疑問に対して、専門家たちは答えを持たなかった。いや、正確には専門家を含む誰もが知らないと言った方が正しい。

 結局、何もわからないまま1カ月ほど過ぎた頃だろうか、世界中の人たちはこのアーチに独自の愛称を付け始めた。

 欧米では、あるシンガーソングライターが「矢の代わりに雨を撃つ巨大な弓のようだ」と表現したことがきっかけで、「レイン・ボウ」(Rain Bow)と名付けられた。弓に例えるのは、戦闘狩猟民族の末裔である欧米人らしい。

 中国では「蛇のうろこのようなきらびやかさだ」「蛇が地から天に昇る様のようだ」ということで「虫工」と表現された。「工」は蛇が地と天をつないでいる様子を表しているらしい。こちらもまた、いかにも中華な発想である。(その後Unicodeに「虹」という文字が登録されていることがわかり、インターネット上では「虹」と表記されることも多くなってきた。)

 日本のネットユーザーの間でも、このアーチに日本らしい名前を付けようという動きが起こった。あまりの巨大さと、真下付近に行くと見えないということから、こんな冗談交じりの発想が生まれた。我々は実はアニメや漫画の世界に生きるキャラクターであり、環境は背景レイヤーである。そしてあのアーチは、神という作者が間違えて表示してしまった「カラーパレット」である、と。だからあんなにカラフルで、この世に存在するあらゆる色を含んでいるのだ。美の神様は、リンゴを塗るときにはパレットの一番外側の色相を使い、ファミリーマートの看板を塗るときには、真ん中から真ん中ちょい下くらいまでの色相を使う。日本でこのアーチは「二次元」を略して「にじ」と呼ばれるようになった。

偏見の構造

  • 差別主義者が同性愛者に感じる感覚をあえて言語化すれば「精神的に醜い」「そばにいるとこっちにまで影響が及びそう」という風になる。ちなみに私は大阪弁をしゃべる人や、サッカー経験者に対して似たような感覚を抱いているので、人のことは言えない

 

 

  • 実際「大阪弁は聞くのも嫌だ」とか「サッカー選手の隣に住むのも嫌だ」とか言ってもそこまで問題にはならないことを考えると*1、反差別の核にあるのは平等とか公正とかいう理念より、「少数者の受難の歴史への反省」とか「傷の回復を邪魔しない」みたいなところにある*2。たとえば関西弁云々を関西人のメンタリティを根拠に言うのと同和問題に引き付けて言うのとでは違う。「苦しんできた人を"これ以上"傷つけない」ということが大事。過去をチャラにして現在を考えることはできないのだ。
  • この感覚の延長に「女性議席を設けるべきか」みたいな議論がある。ポジティブアクションと呼ばれるが、私はこのポジティブというワードを、「「傷の回復の邪魔をしない」にとどまらず回復そのものを引き受けようとする積極性」という意味で理解している。
  • 今年のM-1ウエストランドがすんでのところで炎上しなかったのは、銃を向けた相手がコアなお笑いファンとかユーチューバーとか路上で勝手に歌っている人とか、まだ傷を受けていない人がメインだったからだ*3。でも一度「ネタにしていいんだ」となると新たな偏見の源泉になるのでやはり良くない。いじめとか偏見って、みんなもやっているから一緒にやれてしまう点に醜さがある。裏を返すと、まだみんなが言っていないことを指摘したとき・指摘を聞いたときには、胸がすくような壮挙に思えるわけだが、やはり伝播性に敏感にならなければいけない。伝播性が時間軸に沿って再生産され始めたとき、誰かの受難の歴史が始まる。

  • 「私は関西弁をしゃべる人や、サッカー経験者に対して似たような感覚を抱いている」という一文が誤解を招いたのであれば申し訳ない。撤回して謝罪します。

*1:「そこまで問題にならない」と思っているのは、どうせこんなブログを読むような人は遠からぬ感覚を持っているだろうという最低の甘えによるものであり、岸田首相の秘書官がオフレコで取材に来る記者に抱いていた感情と何ら変わらない。そして彼の目論見が全く外れていたことを考えると私もうかうかしてはいられない

*2:平等とか公正とかいう理念と「少数者の受難の歴史への反省」とか「傷の回復を邪魔しない」みたいなところは背反ではないかもしれない。前者が後者を含むと考えることもできる

*3:さや香真空ジェシカTwitterで一定の支持を集めたのは、高齢者がM-1を見ないから(見てもTwitterに感想を投稿しないから)であり、高齢出産いじりやシルバー人材いじりは、偏見という観点からはかなり危うさをはらんでいた。ちなみに毒や傷つける笑いが悪とされるのは、ポリティカルコレクトネスのおかげでもあるが、自分が傷つきたくないからでもある。そう考えると、この場合の「毒」も、やはり「偏見」とイコールであり、有吉や鬼越の個人攻撃が愛されるのも納得がいく

生理と倫理

 同性愛嫌悪って、社会問題の中でも特に難しさをはらんでいる気がする。改憲とか夫婦別姓とは趣が違う。たぶん生理的な嫌悪感に根差しているものだからなんじゃないかと思うが、どうだろうか。違ったらごめん。当然無知・無理解に由来する部分や嗜虐的な感情からくる側面もあろうが、この問題を「心理」で、「倫理」で、あるいは「論理」で掘り進めても、「生理」という岩盤に突き当たってしまうようなところがある。「ゲイは襲ってきそうで怖い」とか「エイズをうつされる」とかであれば、これは明らかに事実に基づかない偏見である。教育されたり、実際に当事者と関わったりすることで何とかなる領域だろう。ここで嫌悪が解消されるのは理想である。問題はその先だ。「男が男に性的に興奮するなんて……」と言われた場合、主観そのものに対してはクリティカルな反論ができず、「それってあなたの感想ですよね」と言って相手を見下すひろゆきになるしかなくなってしまう。

 「同性愛者だって普通に暮らしているだけだ」とか、「同性愛を認めたところであなたの人生には影響がない」という反論はあまり通用しないと思う。「男が男に性的に興奮するなんて……」と思っている人にとっては、よしんば性的アイデンティティー以外のすべてが自分と同じだとしても、同性愛という一点を捉えて普通ではないと判断するだろう。また、生理的感覚にかかわる話なので、認めるということ(他者として尊重することだけでなく、ジェンダースペクトラムであるという科学的事実を受け入れることも含む)は自分の世界観、ひいては人生に大きく影響する。

 ここまで書くと「おまえはもしかして差別主義者に肩入れする気か」と言われそうな気がするが、全然そんなことはない。何かを非難するときに非難対象の思考回路をエミュレートするのは大切な作業だ。ただ「私はリベラルな人間で、差別に反対しています」と口で言うのは簡単に過ぎ、時に隠れ蓑として使われることもあるので、あえてここで強調しようとは思わない。宣言することも大事だが、言葉の節々からなにがしかをにじませるような、そういう意見表明があってもいいだろう。

 

 岸田首相の秘書官がLGBTを差別して更迭された*1が、私が絶望したのは、「LGBTも好きでなっているわけじゃないし、サポートしたり、救ってあげたりしないといけない」という発言だ。オフレコだからと暴言を吐いておきながらフォローするのも妙なので、これはこれでこいつの本心なのだろうという感じがする。人のアイデンティティーに対して「好きでなっているわけじゃない」と言えるのはすごい。本当に見下していないと言えない。たしかにLGBTはなかなか苦しい思いをしているように見えるかもしれないが、それはお前みたいなやつが権力の中枢にいるからだろ。自分で放火しておきながら「消火しなければいけない」って言っている放火魔みたいで怖いサイコパスか?

 ちなみに私は同性愛を怖がっている人に同じことを言える。「好きでおびえているわけじゃないし、サポートしたり、救ってあげたりしないといけない」。彼の差別発言からは、扇風機に吠える馬鹿な犬のような、愚かさ、みっともなさ、弱々しさを感じる。ということはやっぱり無知・無理解に由来する部分は大きいのだろう。

 でも矯正して共生強制することはできるのだろうか。わからない。生理的嫌悪感は、その人の生態の自然な側面であり(ここでいう「自然な」とは「論理的に考えて、無理なく誰でも納得できる」という意味ではなく「意図的ではなく、無意識のうちにひとりでにそうなる」という意味)、生態に対して倫理的または非倫理的という評価は考えられないため、嫌悪を倫理的に非難することはできないように思われる(これは裏を返せば、性愛にかかわるアイデンティティーもまたどういう形であれ否定されるいわれはないということである)。

 確実にやれることがあるとすれば、犬に扇風機の仕組みを理解させるのではなく、すぐ吠えないようにしつけるということだ。嫌悪感に基づく行動が他者に危害や差別を与える場合には、当然倫理的な配慮を働かせて慎むということである。犬はともかく、人間ならできて当たり前のことだろう。これができない人はクローズアップして軽蔑せざるを得ない。荒井とかいう人は記者団の中にLGBTがいるとは思わなかったのだろうか。思わなかったんだろうな。

 この配慮や慎みを支えるもの、生理的嫌悪感という岩盤をも掘り進む切り札こそ、「人権」という、倫理属性の最強カードだ。改めて考えても素晴らしい発明である*2

*1:

www.jiji.com

*2:ただ人権という最強カードがいつも生理的嫌悪感に勝つ訳でもない。ワクチン忌避にまつわる議論では、おそらくこのカードは、生理的嫌悪感を守る形で、すなわちワクチン忌避を正当化する形で使われることになるだろう

ウマ娘屈指の名曲「PRESENT MARCH♪」を忘れないでほしい

ウマ娘」。してますか? してない人はしよう。

 

「うまぴょい伝説」とかいうふざけた歌は知ってる、という人もいるかもしれない。たしかに音楽はウマ娘の大事な要素。これまでも節目やイベントを経るごとに楽曲が生み出され、高品質な3Dモデリングによる踊り付きで公開されてきた。昨日も新シナリオに伴う楽曲が部分的に先行発表されて話題になったばかりだ。

 

じゃあ「PRESENT MARCH♪」という曲は知っているか。

 

知らないか。そうか。

 

プレイしている人ならきっと知っているはず……

 

と言いたいところだが、この曲はライブシアターに登録されておらず、ジュークボックスにも登録されていないのでタイトルの知名度は低いかもしれない。1.5周年のグラライシナリオでゲーム内に登場したことで、初めてそんなタイトルの曲があることを知った人もいるかもしれない。

 

でもこの曲、プレイヤーなら聴いたことあるはずだ。なぜなら、オフボーカルバージョンが競技場のBGMだから。ゲーム内BGMに歌がついたわけではない。ウマ娘のアプリリリース以前からフルコーラスで制作されていて、アプリにオフボーカルが転用されているようだ。それにしてもゲーム出す前からキャラソンCDを12枚出すってどうなの? よくある話なの?

 

私は最初この曲を聴いたとき、びっくりした。他の楽曲と明らかに違う。音楽の知識もないし、音楽的なセンスもないが、なんとなくわかる。たぶん裏拍が強調されている。なんかジャズ的なおしゃれさがある。あと使われている楽器もにぎやか。ビッグバンド編成という奴だろう。

 

原曲を聴いてさらに好きになった。この曲を聴きながら、ウマ娘をプレイするくらいだ。競技場でしか聞けないのはもったいないので。YouTube食レポ動画を見ながらご飯食べるみたいな感じか。

 

ものすごく複雑で遊び心と仕掛けにあふれている楽曲である。5秒おきくらいに聴きどころがある。とにかく己の音楽的無知が悔しくてならない。もっと私の解像度が高ければ、この曲の魅力を存分に語れたはずだし、すごみも理解できたはずだ。以下Spotifyで配信されているものを基準に、つたないながらもこの曲のことを書きたい。

 

open.spotify.com

 

え。すご。HTML編集じゃなくてもURL貼り付けるだけでSpotify埋め込まれるんだ。トラック埋め込み用のタグを取得する必要ないね。

 

 

「ミックスナッツ」先取りのにぎやか幸せアレンジ

まずアレンジから。私は音楽のことはよくわからないが、いろいろなジャンルの要素を融合させているのではないかと思う。

  • 幻想的で壮大なイントロから始まる。これがディズニー映画の主題歌っぽい。「星に願いを」的な、なんとなくイメージするディズニーっぽさ。マーチ→ミッキーマウスマーチってことか(ディズニーとの関連については歌詞のところでも触れる)。
  • Aメロ前にいきなりサビが来る。タイトル通りマーチっぽい力強いビートなのだが、この最初の数十秒のパートに、この曲の全体像が詰まっている。シンコペーションを感じるあたりは、ジャズっぽくもある。ブラスとパーカッションの大規模なアンサンブル。強いビートを特徴とするスイングスタイルのリズムとアレンジ。とりあえずここだけ聴いて、ビッグバンドを活用した「にぎやか幸せポップス」を確認してほしい。Official髭男dismの「ミックスナッツ」が2022年なので、4年先取りしていることになる。ちなみに歌唱的にもアンサンブルで、3人の声優さんが一緒に歌っている。
  • 1番だけ、Aメロでカスタネットが入る(25秒付近と33秒付近)。フィルスペクターやないかい。www.youtube.com
  • Aメロ、コール・アンド・レスポンスのパターンも由緒正しい感じがして好き。
  • 47秒からBメロに入るとベースがピアノに切り替わり、ドラムもいかにもマーチングバンドなスネアドラムに変わる。ピアノの少しずつ音階が下がっていく感じ(とシンセサイザーのホワンホワンした音)が深い森の中(たぶん湖が広がっている)に分け入るような感触。……と思ったら57秒あたりで全楽器が戻ってきて、一気にサビへ連れ去る。2番サビ前だと「ヒュ~~」というSEが入り(2分22秒)、連れ去られる感は1番より強い。このうれしいせっかちさも「ミックスナッツ」先取り感がある。
  • 2番終わり後の間奏(2分41秒から)はビッグバンドによるアンサンブルそのもの。競馬場で自衛隊に演奏してほしい。途中でチューブラーベルまで鳴る。
  • 打って変わって、壮大な物語の終わりを告げるかのようなささやかなアウトロ(4分13秒から)は、これまたディズニー映画のエンディングっぽい。「めでたし、めでたし」という言葉が似合う。

ディズニーへのアンチテーゼ的な歌詞

イントロとアウトロのディズニーっぽさに反して、歌詞は真逆、というか反対命題的である。それがこの曲の面白いところ。たぶんシンデレラとか意識していると思う。「シンデレラストーリー」というワードに象徴的なように、幸せになるために現状の自己を否定するという構図・主張がフィクションにはありがち。でも、きれいな服を着て、権力者の開催するパーティーに出席し、イケメンの王子に求められることが成功だというのは、なんだかちょっぴり、精神的に貧しい。この曲はそんな貧しさにささやかに抵抗する。心のワクワクこそが幸せなんだと。2番のサビが印象的だ。

華麗に変身なんてしなくていい!

今のままで十分素敵だもんね!

どんな道も未来も

まるで Pleasant Pleasant 舞踏会場

踊るように駆けてこう

CHARMING MARCH!

 

おっとりトリオの歌唱

歌っている3人もいい。スーパークリークハルウララマチカネフクキタル。本編では絡みがあまりないが、ウマ娘を代表するおっとりキャラ達。行進よりお散歩が似合う3人だ。でもそれぞれにおっとり具合が違うし、その境地へのたどり着き方も違う。圧倒的強者感によりおっとりしているクリーク、天性のおっとり・ウララ、占いへの傾倒による精神安定込みでおっとりしているフク。ハルウララマチカネフクキタルはゲーム内だと変な声(いい意味で)だが、歌唱ではらしさを残しつつ、歌に合った雰囲気になっている。プロってすごい。

 

余談

・ところでこのタイトル、どういう意味なんだろうね。presentっていわゆるプレゼント、贈り物のことだろうか。どうでもいい話だが、presentには「現在の」という意味もある。march=行進とつながるとなんとなく「現在進行形」というワードが頭によぎる。(現在進行形は英語でpresent continuousというらしい。)

・この曲に限らず、アプリリリース前のキャラソン群(STARTING GATE)はユニークなものがそろっている。キャラの個性を楽曲構成や楽器編成に反映させる努力と工夫が、聴いていて飽きない。

・アルバムアートワークのハルウララかわいい。眉がすごく吊り上がっていて悪そうな表情。勉強に嫌気がさして投げ出しているように見える。フクキタルはこれ絶対鉛筆転がしてるだろ。運に頼らず勉強しなさい。そして二人の問題児を優しく見守るクリーク。アプリで絡まなかった謎メンツの日常が一枚絵に収まっているジャケット写真を眺めるのもSTARTING GATEの楽しみ(季節限定イベントの一枚絵は日常が描かれているわけではない(それもそれでいい))。

 

以上、「PRESENT MARCH♪」について思いつくまま書いた。私が幼少期から音楽をやっていたらもっと説得的にこの曲の魅力を言語化できただろうと思うと悔しい。異国の人を好きになって、片言の外国語で愛を伝えているみたいな気分で書いた。2月の2周年で新シナリオが追加されて、グラライシナリオがプレイされなくなるとともに「PRESENT MARCH♪」が忘れられる、そんな事態に陥らないことを願っている。PRESENT MARCHャンです。PRESENT MARCHャン。……ふふ~、覚えていてくださいね?